木暮理太郎の意味 登山用語

木暮理太郎(こぐれりたろう)

木暮理太郎は、1873年に群馬県で生まれ、1944年で亡くなるまで、明治・大正・昭和時代を生きた登山家であった。6歳で祖母に連れられて赤城山に登り、1893年に木曽御岳に信仰登山として登っている。これが本格的な登山の始まりである。

1894年は利根川水源(奥利根)探紀行に参加し尾瀬ヶ原まで行き、その後は北アルプスの山々、奥秩父の山々を歩いている。なお、旧東京帝国大学中退後、職業は雑誌『ハガキ文学』の編纂をおこない、また「東京市の資料」の編纂に生涯携わっていた。1913年には日本山岳会に入会し、そこで知り合った田部重治とともに、槍ヶ岳から立山までを案内人なしで縦走を行っている。

「山岳研究」という分野を開拓した先駆者でもある。東京から見える山々を研究して初めて明らかにした人物でもある。また国内だけではなく、ヒマラヤの研究にも力を入れ『中央亜細亜の山と人』を著わしている。1935年、日本山岳会の第3代会長に就任し、1941年に日本山岳会が社団法人として認可されると、社団法人日本山岳会の初代会長に就任した。