ミューアの意味 登山用語

ミューア

ジョン・ミューア(John Muir)は、1838年、スコットランドのダンバーで生まれ、1849年、一家でアメリカウィスコンシン州に移住した。ミューアは農夫、発明家、牧夫、ナチュラリスト、探検家、作家、環境保全主義者でもあった。

農作業の合間にウィスコンシン州の自然や森を散策し、自然に親しんで育つ。1860年、発明品を、州の品評会に出品し賞賛を受けている。同年、ウィスコンシン大学に入学する。3年後、まだ自然が損なわれていない合衆国北部やカナダの旅に出る。1868年にサンフランシスコに上陸し、その時にシエラネバダ山脈とヨセミテを知ることになる。

1871年にはシエラネバダ山脈で氷河を発見し、氷河作用についての学説を発表している。1879年にはアラスカでグレイシャー湾を発見している。ミューアは『センチュリー誌』に掲載した記事で、放牧によって荒廃した山間部草原地帯の危機を訴え、これが世間の注目を浴びた。

彼は、同誌の編集者であるロバート・ジョンソンとともに、自然保護運動を展開し、1890年にはヨセミテ国立公園の制定がアメリカ国会で決議された。1892年には自然保護のための組織、シエラクラブを設立する。1901年に『私たちの国立公園』を出版し、当時のアメリカ大統領ルーズベルトの関心を呼び、1903年に大統領がヨセミテを訪問した。ルーズベルトはミューアと共に自然保護政策の原案をつくりあげている。

ミューアとシエラクラブはシエラネバダ山脈のヘッチヘッチィバレーのダム化反対運動を行ったが、1913年計画は可決され、守り切れなかった。翌年の1914年に死去した。ミューアの自然保護運動は世界中に影響を与えている。探検家・登山家でもあった、東良三(あずまりょうぞう)は、ミューアに深い感銘を受け、後の日本の国立公園創設運動を行っている。